6月 012017
 

 フィギュアスケートの浅田真央さん(26)が現役を引退してから、1カ月が過ぎた。浅田真央のすごさとは何だったのか。この間、ずっと考えてきた問いは、今も頭に残り続けている。この場を借りて、私が1年半彼女を取材した中で、感じたことを記してみたい。(以下、選手時のことを書くため、敬称略)

 浅田の引退に際し、多くの人が彼女に感謝のメッセージを贈った。その中で、はっとさせられたものがあった。人気漫画家江口寿史さんが、4月12日に自身のツイッターに上げたものだ。「ソチのフリー演技ずっと忘れないよ。」のコメントに添えられていたのは、ソチ五輪の演技ではなく、練習の一コマを描いた絵だった。髪を後ろに1つにまとめ、シンプルな黒いタンクトップを着た姿。両腕を体の後ろにまわし、顔は進行方向であるこちらへと向けられ、次の動作に移ろうとしている。すぐに、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳ぶ直前の、ドキドキするあの一瞬を連想した。何かに挑むために、黙々と練習する姿。浅田の魅力が、鮮やかに捉えられていた。

 現役最後の演技となった昨年12月25日、全日本選手権のフリー。前日のショートプログラム(SP)では、シーズン4戦目にして初めて試合でトリプルアクセルに挑み、失敗。8位という厳しい位置でフリーを迎えた浅田の表情は、引き締まっていた。演技前の6分間練習。わずかな時間を残し、浅田がトリプルアクセルの助走に入ると、会場全体ににわかに緊張が走った。両腕を後ろに引き、反動をつけ、左足で踏み切って跳ぶ。3回半回りきって着地すると、止まっていた時間が再び動きだすように、わっと拍手と歓声が響き渡った。私も体に震えを覚えていた。取材中なので、涙があふれそうになるのをこらえた。スポーツ取材をして、初めてともいっていいぐらい打ちのめされた瞬間だった。

 結局、直後のフリー本番では、冒頭のトリプルアクセルで転倒。フリー12位で、合計12位に終わった。GPフランス杯後から全日本までの約1カ月間、浅田は3回転半の練習を行っていた。大会会場である大阪に入り、急に精度は上がってきたが、それでも跳べるのは何本かに1本。ジュニア時代から浅田を教えてきた小林れい子氏によれば、10年バンクーバー五輪直前の確率は、ほぼ100%だったという。本来ならば、試合でできる精度には仕上がっていなかった。それでも浅田は、トリプルアクセルにこだわった。SPの後、リスクがある中でなぜ跳ぶのかの問いには「分からない」と答えた。実際、明確な理由は、なかったのではないだろうか。“挑戦の象徴”。羽生結弦がそうたたえる通り、浅田は最後の演技まで、アスリートとしての意地を通した。

 翌日、ある場所で浅田を待った。これからどうするのか、膝の状態はどうなのか。頭には聞きたい質問がいくつかあった。だが、いざ本人が現れ、顔を合わせた瞬間、質問は吹っ飛んだ。まず口から出てきたのは「感動した。いいものを見せてくれて、ありがとう」という言葉だった。浅田は「ありがとうございます」とうれしそうに笑っていた。限られた時間の中で自分の感想を伝えるなど、記者としては失格だと思う。だが、伝えずにはいられなかった。

 私は画家になりたかった。高3、1浪目と2度、いくつかの美術大学の油画科を受けて、すべて落ちた。絵描きとしての限界に気付き、代わりに古今東西の美術作品を見て、勉強するようになった。なぜ、この作品がすごいのか。答えは容易に見つかるものではないが、とにかく見て、考えた。2浪目に東京芸大芸術学科に合格し、そこから4年間、美術史を学んだ。青春を美術に捧げてきた私にとって、これまで圧倒的な感動とは美術作品を前にして得られるものだった。例えば、ロンドンのナショナルギャラリーにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ」の素描を見たとき。あまりの存在感に、体が震え、しばらく立ちつくすしかなかった。浅田の最後のトリプルアクセルを見たときは、その時の感覚に近かった。卓越した技術の上にある、その人にしかできない表現。スポーツの中にも、圧倒的な美しさと感動があることを、浅田があらためて教えてくれた。

 「優れた芸術作品は、必ず言うにいわれぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、しかも口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を擁し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする」。(小林秀雄「モオツァルト」より)

 考えてみれば、浅田を取材し、いつも感じていたのは無力感だった。演技を美しい、素晴らしいと感じるが、昔読んだ小林秀雄の文章の一節通り、言葉でそれをうまく表すことが出来ない。口にすればうそになってしまう。私たち記者は、その葛藤の中で、謙虚に言葉を重ねていくしかないのだろう。なぜ、浅田はすごいのか。これからも彼女を追いかけながら、考えていきたい

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