4月 152017
 

Number Web によると。

 予定開始時刻の1時間も前から詰めかけた記者やカメラ、用意された座席を大幅に上回る来場者……。交わしている言葉から推測すると、スポーツ以外のメディアも多数いるようだった。海外の記者もいる。最終的には約430人に上ったという。

 その光景に、中野友加里の以前の言葉を思い出す。

 「フィギュアスケートがメジャーになったのも、トリプルアクセルを知らなくてもすごいジャンプなんだと認識してもらえるようになったのも、真央ちゃんからですよね」

 グランプリファイナル初出場初優勝を飾った2005年を語る中での言葉だった。

 白のブラウスとジャケットをまとった浅田真央が現れる。無数のフラッシュに包まれながら、マイクを手にする。

 「本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました。長い選手生活でしたがたくさんの山がありました。でもその山を乗り越えてこられたのも、たくさんのファンの方の応援があったからだと思います」

 その表情は、どこまでも晴れやかだった。
これまでの人生、常に新しい目標を見つけてきた。
 5歳から始めたフィギュアスケートに、26歳の今、終止符を打った。

 これまでをあらためて振り返れば、中学生の頃と今日とで、不思議と姿が重なる思いがする。変わらぬ姿勢と言っていいかもしれない。

 その手がかりは、長期間の競技生活の支えとなっていたものは? と尋ねられたときの答えにあった。

 「1つは、自分の目標ですね」

 振り返れば、その言葉の通り、常に新しい目標を見つけては取り組んできた競技人生だった。
常に、より高くにある自分を目指そうとしてきた。
 「技ができるようになったときは本当に楽しい気持ちになりました。次は2回転、3回転を跳びたいと」

 と振り返る「小さな頃」を皮切りに、常に、より高くにある自分を目指そうとしてきた。

 バンクーバー五輪で「(フリーで)トリプルアクセルを2つ跳ぶ」というオリンピックでは誰も成し遂げていない目標を掲げ、それを達成したのもその1つだ。

 その後には、さらに大きなチャレンジへと向かった。当時、すでに感じ取っていたジャンプの修正の必要から、大会ののち、佐藤信夫コーチに指導を仰ぐ。そこで行なわれたのは徹底した改革だった。佐藤コーチはこう例えている。

 「右手ではさみを使っている人が左手で同じように使うようになること」

 選手として一定以上のキャリアを、つまりは技術も築いている。それを壊して作るような作業がいかに困難であるか。

 大会での成績は、だからすぐにはついてこなかった。

 Leave a Reply

(required)

(required)

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>